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モンゴメリー・ウォード:通販革命を起こしたもう一つの小売王

モンゴメリー・ウォード:通販革命を起こしたもう一つの小売王

創業者アーロン・モンゴメリー・ウォードの肖像(1900年頃)。19世紀後半のアメリカ、農村の人々は生活必需品を入手するのにも苦労していた。地方の小さな商店は商品の価格を吊り上げ、農民は都会より高い値段を払わされていたという 。こうした状況を変えようと立ち上がったのが、若きセールスマン、アーロン・モンゴメリー・ウォードだった。彼の名を冠した「モンゴメリー・ウォード」は後にシアーズと肩を並べる全米有数の小売企業へと成長し、革新的な通販カタログで農村に革命をもたらしたのである。その興隆と没落、そしてオンラインでの復活に至る物語は、アメリカ小売史の壮大な一章と言えるだろう。 

創業の背景:農村部を救うという使命 

南北戦争後のアメリカで成長期を迎えた農業社会。しかし農村の人々は日用品を買うにも地元商店に頼るしかなく、中間業者による度重なる上乗せで「適正価格」で買えないのが実情だった 。ニュージャージー州生まれのアーロン・モンゴメリー・ウォードは、バレル製造やレンガ工場での仕事を経てシカゴで行商人となり、中西部を巡る中で農民の窮状を目の当たりにする 。彼らが都会と同じ価格で良質な商品を手にできるようにすること—それがウォードの使命となった。ウォードはメーカーから商品をまとめ買いし、中間業者を排して農村の消費者へ直接販売するビジネスモデルを着想する 。大量仕入れで価格を下げ、自ら郵便を使って注文を受け付けるというアイデアは当時画期的だった。 

ウォードにとって幸運だったのは、シカゴが全米の鉄道網の中心地であり、地方と都市を結ぶ物流の要衝だったことだ 。鉄道輸送と郵便を駆使すれば、遠隔地の農家にも商品を届けられる。とはいえ、その斬新な計画に賛同する者はほとんどいなかった。友人や事業仲間からは「絵空事だ」と嘲笑され 、出資も集まらない。それでもウォードの情熱は揺るがず、彼は私財をかき集めて事業を始める準備を進めた。 

1872年:世界初の通信販売カタログ誕生 

1871年10月、シカゴ市を大火災が襲い(グレート・シカゴ・ファイア)、街は瓦礫の山と化した 。不運にもウォードが通販事業のために借りていた倉庫もこの大火で焼け落ち、仕入れた商品は灰燼に帰した 。それでも彼は諦めない。翌1872年8月、ウォードはわずか約1,600ドルの資金と2人の社員でシカゴに「モンゴメリー・ウォード商会 (Montgomery Ward & Co.)」を正式に創業する 。シカゴのノース・クラーク通りに借りた小さな部屋から、世界で初めて一般消費者向けの通信販売カタログを発行したのだ 。その創刊号はたった一枚の紙に163の商品を掲載した簡素なものだったが 、地方の農民にとっては自宅で商品を選び注文できる夢のような仕組みだった。 

当初、ウォードの通販事業は順風満帆とはいかなかった。創業翌年の1873年には経済恐慌が起こり、ビジネスパートナーだった2人は事業から手を引いてしまう 。ウォードはたった一人で会社を支え、地道に信頼を築いていった。彼は「満足できなければ料金は返金する」という業界初の満足保証制度を掲げ、通信販売への不安を和らげた 。また、商品説明文にも細心の注意を払い、自らすべてに目を通して正確さを期したという 。こうした誠実さが功を奏し、カタログの評判は次第に農家の間に広まっていく。 

もっとも、地方の既存商店にとってウォードの登場は脅威でしかなかった。農民たちが通信販売で直接購入するようになれば、自分たちの商売が上がったりになってしまう。怒った地元の雑貨店主らはウォードの配ったカタログを集めて焼き捨てる騒ぎさえ起きたという 。それでも「ウォード商会」の通販事業は着実に成長した。創業から数年で売上と商品数は急増し、1883年にはカタログは240ページに及び1万点もの商品を掲載するまでになった 。農家の人々は分厚いカタログを**“ウィッシュ・ブック”**(夢の本)と呼んで愛読し、衣料から農機具、果ては家そのものまで何でも郵便で注文できる時代が到来したのである 。 

シアーズとの競争と1900年の逆転劇 

19世紀末、モンゴメリー・ウォード社の成功は新たな競争相手を呼び寄せた。1893年、ミネソタ出身のリチャード・シアーズがシアーズ・ローバック社を創業し、数年後の1896年には最初の通信販売カタログを発行して全国展開を開始する 。カタログ販売市場で初の本格的な競合が出現したのだ。当初はパイオニアであるウォード社が優位を保っていたものの、シアーズ社は巧みな広告戦略と幅広い品揃えで急成長を遂げる。ウォード社も負けじと販路を拡大したが、両社の激しい覇権争いの中で次第に形勢は逆転していった。 

ついに1900年、年間売上高でシアーズ社がウォード社を初めて上回った 。この年ウォード社は870万ドルの売上を計上したのに対し、後発のシアーズ社は1,000万ドルを突破したのである 。通信販売という新市場を切り開いた先駆者が、その舞台で後発のライバルに追い抜かれる劇的な瞬間だった。もっとも、当時のアメリカでは農村人口が依然として多く、両社のカタログは“アメリカ人の生活の一部”と言えるほど広く浸透していた 。20世紀初頭はまさに通信販売ビジネスの全盛期であり、モンゴメリー・ウォードとシアーズ・ローバックという二大巨頭が市場を二分していたのである 。 

実店舗への進出:1926年の新戦略 

20世紀に入り、アメリカ社会は大きく変化していく。人口の都市流出や自動車の普及により、人々の購買行動も多様化し始めた 。都市部では百貨店が隆盛を極め、郊外や地方でも自動車で買い物に出かける層が増えていった。通信販売一本だったウォード社も、新たな時代に対応すべく方針転換を迫られる。そこで1926年、創業から半世紀を経て初の実店舗をインディアナ州プリマスに開設した 。シカゴの本社直営店(旗艦店)もミシガン大通り沿いに華々しくオープンし 、カタログで培った知名度を武器にリアル店舗網の拡大に乗り出したのである。 

ウォード社の小売店進出は凄まじい勢いで進行した。最初の店舗開業からわずか2年後の1928年には全米で244店を展開し、翌1929年には531店と倍増した 。もはや通販専門の会社ではなく、全米各地に緑色のオーニング(日除け)を掲げた「ウォードの店」が現れるようになった 。小規模な町には中型店を、大都市には大型店を構える戦略で販路を広げ、商品流通のため各地に巨大な配送センターも建設された 。こうして直営店事業は大成功を収め、1930年頃にはウォード社の店舗売上が通信販売売上を追い抜くに至った 。通信販売の老舗は、自ら築いたカタログの伝統に加え、新たに実店舗小売という第二の柱を手に入れたのである。 

買収提案の拒絶と独立維持の選択 

店舗網の急拡大により業績を伸ばしたモンゴメリー・ウォード社だったが、同業のライバルも虎視眈々と動いていた。1930年、長年競い合ってきたシアーズ社がウォード社に対し合併(買収)提案を持ちかけてきたのである 。郵便注文から店舗販売に至るまで事業領域が重なる両社の統合は、小売業界に巨大な帝国を生み出す可能性があった。だがウォード社はこの提案を断固拒否する 。通信販売の開祖としての矜持、そしてせっかく築いた実店舗ビジネスへの自信が、ライバルに身を委ねることを良しとしなかったのだろう。その決断の裏には、「我が社は独力で困難を乗り越えられる」という経営陣の信念があった。 

しかし皮肉なことに、その直後に世界恐慌の嵐が吹き荒れる。1929年の株価大暴落に端を発した不況は消費を冷え込ませ、ウォード社も1930年代初頭には赤字に転落した 。経営不振に業を煮やした大株主のJ.P.モルガン・ジュニアは1931年、救済策としてスール・エイブリーを新社長に招聘する 。エイブリーは大胆な合理化を断行し、店舗と人員の整理、商品ラインナップの見直し、本部機能の強化など徹底した改革に乗り出した 。その結果、1930年代後半までにウォード社は再び息を吹き返し、驚くべき復活劇を遂げる。1930年代末には売上規模で全米最大の小売業者に躍り出て、誰もが「ウォードは健在だ」と認めるまでになった 。ライバルの買収攻勢をはねのけ、自力で危機を乗り切ったウォード社は、この時点ではまさに不死鳥のようであった。 

戦後の変貌と長い黄昏 

第二次世界大戦後、アメリカの小売業界はさらに様相を変える。自動車社会の成熟と郊外の発展に伴い、巨大ショッピングセンターやスーパーマーケットが登場し始めた。ウォード社も戦後しばらくは店舗網を維持したものの、ライバルのシアーズが積極的に新規出店や商品開発を進める一方で、ウォード社は保守的な経営に陥ったとされる。例えば当時の社長スール・エイブリーは戦後も強固な財務体質の維持を優先し、新規投資に消極的だったと言われる。その結果、1950年代以降に台頭したショッピングモール時代の波に乗り遅れ、徐々に市場で存在感を失っていった。 

1960年代後半には経営再建を図るため他社との提携や合併が模索され、1968年にコンテナコーポレーションと合併して「マーカー (Marcor)」という持株会社の一部門となる。その後1976年に大手石油会社モービルによる買収を経て、1985年にはついに113年間続いた通信販売カタログ事業を終了する決断が下された 。自社の象徴であった分厚いカタログを捨て去り、経営資源を店舗小売に集中する策だった。しかしこれも奏功せず、1980年代以降はシアーズのみならず、新興のディスカウント量販店(ウォルマートやターゲットなど)の台頭によってウォード社の苦境は深まっていく 。 

1990年代半ば、ウォード社は満を持して経営刷新に取り組むが、時すでに遅かった。1997年には連邦倒産法第11章の適用を申請し経営破綻。100店舗以上を閉鎖し、チェーン名を愛称の「Wards(ウォーズ)」に改めてイメージ刷新を図るなど、最後の巻き返しに賭けた 。だが消費者の支持を取り戻すには至らず、2000年のホリデー商戦でも業績は振るわなかった。そして2000年12月28日、モンゴメリー・ウォード社は全店舗の閉鎖と事業終了を発表する 。約250の店舗が営業を終え、3万7千人もの従業員が職を失ったのである 。19世紀から続いた小売の巨人は、20世紀の終わりに静かに幕を下ろした。 

オンラインでの復活とブランドの遺産 

2001年までにすべての店舗が閉鎖されたモンゴメリー・ウォード社だが、その名前は完全には消えなかった。ブランド名やロゴなど無形資産の価値に着目したアイオワ州のカタログ通信販売会社が商標権を買い取り、2004年に「モンゴメリー・ウォード」はオンライン専業の小売企業として再始動したのである 。新生ウォード社は実店舗を持たず、インターネットとカタログ通販を通じて家具や家電、衣料品など幅広い商品を販売している。かつての会社そのものではないものの、その名は21世紀のデジタル市場にも受け継がれた。奇しくも、一世紀前にウォードが始めた「自宅にいながら買い物できる」という革命が、現代では**電子商取引(eコマース)**という形で主流となっている。ウォードとシアーズという二大巨頭は時代の波に乗り遅れ一度は没落したものの、その先駆的な試みは後のオンライン通販隆盛の道を切り開いたと言える 。 

今日においてモンゴメリー・ウォードというブランドは、全盛期の輝きを失ったものの小売史に確かな足跡を残している。農民の暮らしを一変させた通信販売のビジネスモデル、「満足保証 or 返金」という顧客第一の方針 、そしてクリスマスの赤鼻のトナカイルドルフの物語までも創り出した企業として 、その名は語り継がれている。モンゴメリー・ウォードの物語は、顧客のニーズに応える革新と、競争の荒波にもまれた栄枯盛衰の歴史だ。そしてその遺産は、新しい形で現代の小売業に脈打ち続けていると言えるだろう。 

参考

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