
時計から始まった小売帝国:シアーズ・ローバック物語
アメリカ小売史に燦然と輝く名門 Sears, Roebuck and Co.(シアーズ)。その物語は、19世紀後半の小さな鉄道駅から始まりました。一人の若者が偶然手にした時計が、やがて全米を席巻する小売帝国への第一歩となったのです。創業から約130年を経て、通信販売カタログでの成功、実店舗チェーンへの発展、戦後の多角化、そしてインターネット時代への挑戦と変革――本稿では、シアーズの波乱万丈な歴史を雑誌記事風のストーリー形式でたどってみましょう。
リチャード・シアーズと「鉄道駅の時計」事件
1886年、ミネソタ州の片田舎にある鉄道の北レッドウッド駅。当時23歳の若き駅長 リチャード・W・シアーズ は、ある日駅に届けられた荷物に目を留めました。それは地元の宝石商が注文を断った懐中時計の大量発送でした 。送り返すのも手間なその時計を譲り受けたシアーズは、各地の駅長仲間に手紙を書き、格安で販売してみることにしました。結果は大当たり。農村の人々にとって時計は都市の憧れであり、鉄道の発達と標準時制の導入で正確な時刻管理が求められ始めていたことも追い風となりました 。数か月で5,000ドルもの利益を手にしたシアーズは、この成功に自信を深め、ミネアポリスに「R.W.シアーズ・ウォッチ・カンパニー」を設立して本格的な通信販売業に乗り出したのです 。
ローバックとの出会いと会社設立
シアーズの時計販売ビジネスは瞬く間に拡大し、翌1887年には腕利きの時計修理工だったアルヴァ・C・ローバックを雇い入れ、拠点を商都シカゴへと移しました 。同年、シアーズは初の通信販売カタログを発行します。そこには懐中時計や宝石類が掲載され、「気に入らなければ全額返金保証」という当時としては画期的なサービスも打ち出されました 。シアーズは巧みな宣伝文を書き、新聞や雑誌にも広告を掲載して注文を集めました。その才能は群を抜いており、わずか2年後の1889年には最初の事業を10万ドル(現在の約300万ドル)で売却できるほどになります 。
しかし銀行経営を志してアイオワに移ったシアーズはすぐに退屈さを感じ、結局1892年にシカゴへ戻ってローバックと再合流しました 。二人は改めて新会社を立ち上げ、翌1893年9月に社名を「シアーズ・ローバック・アンド・カンパニー」と改めます 。ここに、後に全米にその名を知られる小売企業が正式に誕生したのです。
「夢のカタログ」の誕生と拡大
19世紀末から20世紀初頭にかけて、シアーズは通信販売で驚異的な成長を遂げました。当時、農村部の人々は品揃えの乏しい田舎の雑貨店で高価な商品をツケ払いで買うしかなく、不便を強いられていました 。そこに登場したのがシアーズの通販カタログです。シアーズは顧客が現金前払いで注文できるよう低価格の定価販売を打ち出し、農家でも選びきれないほど豊富な商品を提供しました。1893年にはわずか196ページだったカタログはわずか数年で分厚くなり、1895年にはなんと532ページにも及ぶまで拡大します 。掲載商品も時計や宝飾品から、洋服、農機具、自転車、楽器、果ては自動車にまで広がりました 。シアーズの「何でも売っている」カタログは「消費者の聖書」とも称され、当時の農村家庭にとって待望の一冊となったのです 。
ジュリアス・ローゼンウォルドの参画と経営体制の確立
こうした急成長の裏側で、シアーズは1895年に大きな転機を迎えます。義理の兄弟からの紹介を受け、衣料品業で実績を積んでいたジュリアス・ローゼンウォルドが出資者として経営に加わったのです。ローゼンウォルド自身、のちにこの決断を「5分で決めて行動した」と振り返っています。以後、派手な宣伝文句でカタログを彩る才覚に長けたシアーズと、日々の業務やサービス管理を堅実にこなすローゼンウォルドという、対照的な二人三脚体制が確立されました。この体制のもと、年間売上高は1895年の75万ドルから1907年には5,000万ドルへと、わずか12年で60倍以上に膨れ上がります。
リチャード・シアーズの引退とローゼンウォルド体制
1908年、リチャード・シアーズは健康上の理由から経営の一線を退きます。以後はローゼンウォルドが単独で舵を取ることになりましたが、その手腕のもとでも成長は衰えるどころか加速し、1920年には年間売上高が2億4,500万ドルに達しました。ローゼンウォルド自身は1924年に社長職を後進に譲りますが、会長としてその後も経営に関わり続けます。
カタログから実店舗へ
20世紀に入り自動車が一般家庭にも普及し始めると、都市部の実店舗へ足を運ぶ人々が増えていきました。この変化を捉え、シアーズは1925年、カタログの商品を実際に手に取れる初の実店舗をシカゴにオープンします。この試みは大成功を収め、わずか2年後の1927年までに店舗数は27にまで拡大しました。同じ1927年には、シアーズ独自の工具ブランド「クラフツマン」が誕生します。製造こそ外部メーカーに委託していましたが、商標はシアーズが保有するという、プライベートブランド戦略の先駆けでした。また1913年にミシンブランドとして始まった「ケンモア」も、1920年代には洗濯機など白物家電のラインへと展開し、シアーズの看板ブランドの一つに育っていきます。実店舗の躍進は数字にも表れ、1931年には初めて売上の過半数(53.4%)が実店舗経由となり、1933年には店舗数400を数えるまでになりました。
保険事業への進出とシアーズ・タワー
小売事業の拡大と並行して、シアーズは1931年に自動車保険会社「オールステート」を設立します。社名はシアーズが販売していたタイヤのブランド名に由来し、当初はシアーズのカタログや通信販売を通じて保険を販売するという、小売と金融を組み合わせたユニークな事業でした。オールステートはのちに1993年に分離・上場し、1995年には完全に独立した会社となります。1973年には、シカゴに本社ビル「シアーズ・タワー」が完成。高さ1,454フィート(約443メートル)は当時世界一を誇り、約25年にわたりその記録を保持し続けました。全米屈指の小売企業としての存在感を、物理的な高さでも象徴する出来事だったと言えるでしょう。
競争激化と苦境
しかし20世紀後半、小売業界の競争環境は大きく変化していきます。ウォルマートやターゲットといった低価格路線のディスカウントストアが台頭し、モール内では専門店チェーンが存在感を増す中、総合小売業としてのシアーズは徐々に競争力を失っていきました。1990年代以降は主力だった通販カタログも発行を縮小し、2000年代にはインターネット通販の波にも乗り遅れる形となります。
Kmartとの合併から破産申請へ
2005年、ヘッジファンド運用者エディ・ランパートの主導により、シアーズは長年のライバルであったKmartと合併し、持株会社「シアーズ・ホールディングス」が誕生します。合併時点での年間売上高は500億ドルを超え、全米第3位の小売企業となりました。しかしランパートはコスト削減を優先し、店舗への投資や在庫の更新を怠る一方で、優良な不動産や有力ブランドを切り離して売却するという経営を続けます。その結果、ブランド力・店舗の魅力はともに損なわれていき、2018年10月15日、シアーズ・ホールディングスはついに連邦破産法第11章の適用を申請しました。ランパートはCEOを退任しましたが、翌2019年には自身のヘッジファンド、ESLインベストメンツが破産手続きの中でシアーズを買収し、会長として経営に関わり続けることになります。かつて全米の家庭に「夢のカタログ」を届け、通信販売から実店舗、保険事業、そして世界一の高さを誇るビルまで築き上げたシアーズ帝国は、こうして大きくその規模を縮小させることとなったのです。
参考
- Wikipedia. Sears, (参照 2026-10-22).
- EBSCO Research Starters. Julius Rosenwald, (参照 2026-10-22).
- EBSCO Research Starters. Roebuck Opens Its First Retail Outlet, (参照 2026-10-22).
- Wikipedia. Allstate, (参照 2026-10-22).
- CNBC. Sears files for bankruptcy, (参照 2026-10-22).